自分にもしものことがあった時、頼れる人がどこかにいれば寂しくない。頼れる人が、常に自分のそばにいる必要はない。必要な時に連絡が取れればよい。頼れる人がどこにもいないことを「寂しい」という。
毎日誰かに会っていても、大勢の中にいても、肝心な時に連絡できない人ばかりであれば寂しい。寂しさとは、人が恋しいとか、誰かとおしゃべりしたいとか、そういう意味ではない。
今の社会は、誰にも頼らず1人で生きていけるほど完全ではない。いざという時に頼れる人がいるかどうかは、生存やQOLへ大きな影響を及ぼす。頼れる人が1人でもいれば安全度は大きく増し、2人いればかなり盤石だ。頼れる人が誰もいないということは丸腰で戦場にいるようなものだ。頼れる人がいない人は、いざという時が来てしまうことがとても怖い。その恐怖心が「寂しさ」の正体だ。
「寂しさ」の正体を知らずに、寂しさを紛らわそうとすると、大勢の人の中へ出かけたり、誰かと会う機会や話す機会を増やしがちだ。そんなことをしても、寂しさは消えない。
「寂しさ」を軽減するには、自分でいざという時に備えるしかない。急な体調不良に備えて、食料を家にストックしたり、家をバリアフリーにしたりなどだ。自治体の公共サービスで使えるものがないか、民間の救済措置にはどんなものがあるかなど、情報収集もした方が良い。「いざという時」を想像して、人に頼らない方法で、一つずつ備えをしていくしかない。
「備え」は、頼れる人の完全な代わりにはならない。それでも、頼れる人探しを「備え」に優先させてはダメだ。「頼れる人探し」は備えが整ってからの方が良い。「頼れる人」を見つけるのは、どのくらい時間がかかるのか、また一度見つかっても、いつまで頼れるのかわからない。不確実性が高い。一方、備えは自分で計画的に着々と進められる。今の社会インフラでは、どうしても備えられないこともあるが、それも明確になっていく。
「家族」はとてもよくできたシステムだ。お互い助け合えるだけでなく、知恵も出し合える。「三人よらば文殊の知恵」というが、1人で考えるより良いアイデアも出やすい。配偶者と子供2人いればかなり盤石だ。


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