母が通院していたクリニックの院長が体調を崩した。ある日行ったら、フサフサの髪がなくなり、ニット帽をかぶり、絞り出すような声で診察していた。母の体調について相談したいことがあったが、聞けるような状態でなく、いつも通り薬だけもらって帰った。その1週間前は元気そうだったので、あまりの急変にびっくりした。
待合室に貼り紙があり、院長は膵臓の病気のため不定期に休むと書いてあった。膵臓の病気とは癌だろうか、髪がなくなったのは抗癌治療のためだろうか。貼り紙にはさらに、クリニックの建物が翌月に解体されると書いてあった。院長はまだ60代だが、何かを覚悟しているように思った。
寿命の影は、ある日突然やってくるのだろう。ちょっとした体調の変化や違和感とともに。病院で検査をして、不安が的中したら、もうそこから日常はない。非日常の始まり。
もし自分にそのような時が来たら、何を思うだろうか。
残された毎日をじっくりと味わって過ごしたいと思う。早朝の清々しさ、食物の美味しさ、景色の美しさなど、じっくりと見ておきたい。あと何回季節の移り変わりを見れるのかわからない。春の桜も、夏の日差しも、秋の紅葉も、冬の乾燥した空気も今回が経験納めになるので、きちんと味わっておきたい。
多少寝不足になってもいいから、早起きしたい。早朝の気持ちよさを1回でも多く味わっておきたい。早朝の散歩がとても気持ちいいことは知っているのに、睡眠を優先して、人生で両手で数えられるくらいやったことがない。寝不足で昼寝してしまっても構わないから、早朝散歩したい。
やり残しこと、やっておけばよかったことは考えない。「子供を産んでみたかった」とか「世界旅行したかった」「起業に挑戦してみたかった」など、リストアップしようと思えばいくらでも出てくる。最期は生まれてきてよかったと思いたい。やり残したことを悔やんで終わりたくない。
数ヶ月かかるような大きな計画も立てない。途中で体調の限界が来て、「ああ、もっと時間があれば完了できるのに」とか、「ああ、もっと生きたい」と思ってしまったら、自分の運命を恨んで泣いてしまうだろう。
家の掃除と片付けもしたい。掃除をすると過去をしみじみ振り返ることができる。捨てるもの、捨てないものを決めていく作業は、何が自分にとって大切かが明らかになり、心がスッキリ整理される。
もう老後の心配や備えをする必要がない。老後は来ないからだ。そう考えると老後の心配とは、なんと贅沢な悩みなのだろう。
そういえば、晩年に色々な病気を抱えていた父が、夜眠るのを怖がっていたのを思い出す。眠ったら、もう朝が来ないかもしれないから心配で眠れないと言っていた。この感覚はまだ私には想像できない。想像するのも怖い。
一通り、自分の末期の過ごし方を想像したら、一日一日やこの瞬間がとても貴重なものだと感じるようになった。今に集中して過ごしていると、「待つ」こともそれほど嫌ではなくなった。待ち時間は無駄な時間なのではなく、その間も景色を見て、温度を感じ、いろんな感情を経験している。


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